「30光年先のガールズエンド」の公演会場は早稲田小劇場どらま館だった。早稲田駅からその劇場へと向かう道中、大学受験のときのことを思い出していた。18歳のぼくはこの道を歩いて受験会場へ向かっていた。あれからもう10年以上経ったのだ。
たしかその時は大学生活のことを想像したりしていた。大学の演劇サークルはどんな雰囲気で、役者はどんな稽古をするんだろうとか。たぶん他にもいろんなことを思っていたはずなんだけど忘れてしまった。今は思い出せなかった。
ここはアルコール依存症の閉鎖病棟なのか、それとも断食病棟なのか判然としない。 "フカヅメイリヤ"をを演ずる俳優が何人かいて、誰が"フカヅメイリヤ"なのか判然としない。 そして、今がいつなのかも判然としない。 セリフが、場所が、時間が、キャラクターが幾層にも重なり合わせ合っていて、捉えどころがない。
捉えどころがない——それはまさに現実の状況を表現しているように思えた。
ベンチに座った二人の"距離感"が変わっていく様子を描いたコーポリアルマイムの小品。
コーポリアルマイムを観るのははじめてだった。
ほとんど身体だけで表現していて、多少のセリフはあったが補助的なものだった。
一見すると、よくありそうな寸劇だったのだけれども、動きは無駄なく洗練されていて、興味を惹かれた。
公演会場に入るとベッドにiPhoneのホーム画面が写っていて、男がそれを操作していた。 iPhoneは何でもどこまでも応えてくれるし、楽器にもなるしすごく便利だ。 iPhoneを忘れて外出した男は、すごく不便を感じる。カメラもムービーも撮れないし、何より検索もできない。 iPhoneの中にはプライベートな写真とか検索履歴とか、その人のパーソナリティがすっかりわかってしまうものにみちている。 もうiPhoneはパーソナリティの一部だし、拡張された「わたし」なのだ。